何を祈れというのか

家族がいつも幸せの世界であるとは限りません。家族のなかが地獄になってしまうこともあります。

私の通っている教会のクリスマスにも参加したことがある家族がいました。

ご主人は学校の先生でした。夫人は病院の看護師長をなさっていました。夫妻ともクリスチャンで子供が二人いました。長男は秀才でした。次男には精神障害が少しありました。

20数年前のことですが、大事件が起きました。真夜中に次男は台所から包丁を持ち出し、両親を刺殺してしまったのです。

その葬儀を私が所属している教会が引き受けました。

私は、当時、その教会の信徒代表の仕事をしていましたので、牧師とともに葬儀のお世話をしました。

私は、参列者の前で聖書を読み祈らなければならなりませんでした。

しかし、何を祈れというのか。この世の地獄の中で何を神に祈るのか。「あなたの前で私は祈る言葉を知りません」と祈りました。

私は、人間の中になんと恐ろしいものがあるかを見ました。

その恐ろしさは、暴力団がナイフを振りかざして人を刺すという恐怖とは異なるものでした。

自分の愛する者が、心からいとしむ者が突如刃向かうことの恐ろしさでありました。

両親は一瞬その恐るべき地獄を見て世を去ったに違いありません。

キリスト教の信仰によれば、神は最も大切なものとして人間をお作りになった。

しかし、その人間は与えられた自由を駆使して神に背を向けてしまいました。これは、キリスト教の人間観の最も重要な部分です。

次第に私は、人間の背信について思いを深めました。

今自分はこの悲惨な事件に遭遇したお二人のご遺体の前に立っているけれども、まさにそれを示しているのではないかと思いました。

私は、言葉少なの祈りの最後に、「あなたが聖書を通して明らかにしようとされていることを私ども一人一人に教えて下さい。」と祈りました。